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  <title>渋沢栄一ファンクラブ</title>
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  <description>渋沢栄一の顕彰</description>
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    <item>
    <title>渋沢栄一とはどういう人物か？</title>
    <description>
    <![CDATA[　渋沢栄一は、天保１１年（１８４０）２月１３日、武蔵国榛沢郡血洗島村（現在の埼玉県深谷市血洗島）に生まれました。家は、養蚕と藍玉（木綿の染料）の生産・販売を主業とする富裕な農家でした。幼少より漢学を習い、７歳の頃からは隣村手計村に住む１０歳年上の従兄弟尾高惇忠に師事しました。<br />
<a href="//kensho21.blog.shinobi.jp/File/ranko.jpg" target="_blank"><img src="//kensho21.blog.shinobi.jp/Img/1247533408/" border="0" alt="藍香尾高(淳忠)翁頌徳碑" /></a><br />
<small>尾高(淳忠)翁頌徳碑(深谷市下手計・鹿島神社境内)</small><br />
　青年期には次第に憂国の情を募らせ、文久３年（１８６３）１１月、従兄弟の尾高惇忠や渋沢喜作らとともに、高崎城（現在の群馬県高崎市）乗っ取り・横浜異人館焼き打ちを企図しましたが、惇忠の弟長七郎の必死の説得により、これを断念します。その後、郷里を出奔し、京都に一橋家の重臣平岡円四郎を頼り、翌年２月、同家に仕官しました。<br />
<br />
　慶応３年（１８６７）正月、第１５代将軍徳川慶喜の弟清水昭武を代表とするパリ万博親善使節の一員に選ばれ、渡仏しました。およそ２年にわたる滞欧生活の間に、銀行制度や株式会社制度をはじめとするヨーロッパの先進文明に接し、のちの活躍の基礎を築きました。明治元年（１８６８）１１月、徳川幕府の瓦解により帰国しました。<br />
<br />
　明治２年（１８６９）１１月、政府の要請により当時の民部省（のちの大蔵省）に入り、暦法や度量衡の改正・郵便制度の創設・鉄道の敷設等々、数々の改革に従事し、大蔵小輔（現在の次官の地位）にまで進みますが、財政改革の主張が入れられず、明治６年（１８７３）５月、上司の井上馨とともに辞任しました。同年６月、我が国最初の銀行である第一国立銀行（のち第一銀行、現在のみずほ銀行）が設立され、総監役（のち頭取）に就任し、以後、王子製紙・東京商法会議所（のちの東京商工会議所）・大阪紡績（のちの東洋紡績）・帝国ホテル・東京石川島造船所・東京瓦斯株式会社・札幌麦酒等々、数々の企業や団体の創立・運営に参画し、その数は５００社を越えるといわれています。<br />
<br />
　また、明治７年（１８７４）１１月、東京府知事より共有金取締（江戸町会所の積立金）を命ぜられ、これを契機に養育院の創設をはじめとする数々の社会・公共事業にたずさわり、その数は６００を越えるといわれています。一橋大学・日本女子大学・早稲田大学への支援を始め、学術・教育の振興にも寄与しました。晩年は、特に日米親善に心血を注ぎ、排日移民法の撤廃やワシントン軍縮会議の成功に向けて精力的に活動するなど、国際平和活動に尽力しました。昭和６年（１９３１）１１月１１日、享年９２歳で、東京王子の自邸に没し、谷中霊園に葬られました。葬儀の当日、会葬者の数は３万人を越え、多くの人々がその死を惜しみました。<br />
<br />
　経済活動には道徳が必要だとする渋沢栄一の経営理念は、その生前から「道徳経済合一説」として広く世に知られており、現在でも多くの企業家の尊敬を集めています。<br />
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    </description>
    <category>渋沢栄一を知る・学ぶ</category>
    <link>https://kensho21.blog.shinobi.jp/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%83%BB%E5%AD%A6%E3%81%B6/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%86%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%8B%EF%BC%9F</link>
    <pubDate>Tue, 14 Jul 2009 02:27:38 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>渋沢栄一のふるさと深谷市血洗島</title>
    <description>
    <![CDATA[　江戸時代、深谷は中山道の宿場町として栄えました。天保年間（１８３０～１８４４）のことですが、旅籠の総数は大小合わせて８０軒を越えたといわれています。幕府直轄の天領でした。<br />
　渋沢栄一生誕の地である当時の血洗島村は、この深谷宿から北へ約１里半（６ｋｍ）のところにあり、さらに村の北１．６ｋｍほどの所に利根川が流れ、上州（現在の群馬県）の地に接しています。この利根川には近接の地に中瀬河岸（現在の深谷市中瀬）があり、ここは江戸方面（現在の東京）へと至る、また江戸方面より来る、人や物資の中継基地として、大いに栄えました。<br />
<a href="//kensho21.blog.shinobi.jp/File/nakanchi2.jpg" target="_blank"><img src="//kensho21.blog.shinobi.jp/Img/1247533344/" border="0" alt="渋沢栄一の生家 中の家" /></a><br />
<small>渋沢栄一の生家「中の家」</small><br />
　このように血洗島村は、人や物資が交通・流通する上でたいへん重要な意味を持つ中山道と利根川という２大幹線に近く、渋沢栄一の育つ頃には、当時最新の情報や文化にふれることも容易な土地柄であったことと思われます。この血洗島村は、近くの村々と合わせて、岡部藩安部氏の支配する土地でした。安部氏はもと今川氏の家臣でしたが、今川氏の没落後、徳川家康に臣従し、天正１８年（１８９０）、家康の関東入国に伴い、岡部の地に領地を与えられ、三河半原（現在の愛知県新城市）の領地その他と合わせて１万石を越え、小さいながらも大名に列せられたものです。旧深谷市街に隣接する岡部町（現在は合併して深谷市岡部）に陣屋がありました。<br />
<br />
　血洗島をはじめ、利根川に隣接する地域は、太古より利根川の氾濫原をなしており、たいへん肥沃な土壌であり、その土には細かな砂礫が混じっているため、米作には向きませんが、畑作には最適の地であり、現在も「深谷ネギ」をはじめとする野菜の一大産地として、全国的にも有名なところです。<br />
　特に、栄一の育った頃には養蚕と藍玉の生産が盛んで、栄一の生まれた家は、血洗島村の渋沢一族の間でも「中の家（なかんち）」と呼ばれ、本家筋とされていますが、この「中の家」における藍玉の年商は１万両を越えたとされるように、栄一はたいへん裕福な農家に育ちました。また、この藍玉の生産・販売は、一時期に莫大な資金とこれに応じた人手を要するため、新規の参入が非常に難しい業態であり、その分利益も大きなものがありました。<br />
<a href="//kensho21.blog.shinobi.jp/File/suwa09.jpg" target="_blank"><img src="//kensho21.blog.shinobi.jp/Img/1247533259/" border="0" alt="血洗島の諏訪神社" /></a><br />
<small>深谷市血洗島の鎮守・諏訪神社</small><br />
　血洗島という地名の由来には諸説があり、いずれも定説となるまでにはいたっていませんが、その一、二を紹介しますと、まず、太古より繰り返されて来た利根川の氾濫により、土地が常に洗われる意からチアライジマとなったのだというもの。また、土地が荒れている意からチアレジマ変じてチアライジマとなったのだとするもの。この両説が代表的なものです。渋沢一族がこの血洗島に土着したのは天正年間（１５７３～１５９２）のことといわれますが、荒れ地を耕してのそれであったとすれば、チアレジマ変じてチアライジマとなったという説にも、大いにうなずけるものがあります。さて、皆様はいかがお考えでしょうか。<br />
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    <category>ふるさと深谷</category>
    <link>https://kensho21.blog.shinobi.jp/%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E6%B7%B1%E8%B0%B7/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80%E3%81%AE%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E5%B8%82%E8%A1%80%E6%B4%97%E5%B3%B6</link>
    <pubDate>Sun, 12 Jul 2009 02:17:36 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>渋沢栄一を知るための参考文献</title>
    <description>
    <![CDATA[<b>（基本的資料）</b><br />
『渋沢栄一伝記資料』全５８巻（渋沢栄一伝記資料刊行会・昭和３０年～４０年）<br />
　　同　　　　　　　別巻１０（渋沢青淵記念財団竜門社・昭和４１年～４６年）<br />
『渋沢栄一事業別年譜』（国書刊行会・昭和６０年）<br />
渋沢栄一著『論語講義（一）～（七）』（講談社学術文庫・昭和５２年）<br />
渋沢栄一述『雨夜譚』（岩波文庫・昭和５９年）<br />
<b>（伝記関係）</b><br />
幸田露伴著『渋沢栄一伝』（岩波書店・昭和６１年）<br />
土屋喬雄著『渋沢栄一』（吉川弘文館・平成元年）<br />
韮塚一三郎・金子吉衛著『埼玉の先人・渋沢栄一』（さきたま出版会・昭和５８年）<br />
佐野眞一著『渋沢家三代』（文春新書・平成１０年）<br />
<br />
<b>（小説）</b><br />
城山三郎著『雄気堂々』（新潮社・昭和４７年）<br />
大仏次郎著『激流　若き日の渋沢栄一』（恒文社・平成７年）<br />
<br />
<b>（郷土史関係）</b><br />
山口律雄・清水惣之助著『渋沢栄一碑文集』（博字堂・昭和６３年）<br />
荻野勝正著『郷土の先人　尾高惇忠』（博字堂・平成７年）<br />
鳥塚惠和男・新井慎一著『郷土の先覚　渋沢仁山　－関係資料集－』（博字堂・平成８年）<br />
新井慎一著『渋沢栄一を生んだ「東の家」の物語』（博字堂・平成１４年）<br />
新井慎一著『渋沢栄一　－父と子の物語－』（博字堂・平成１６年）<br />
新井慎一著『渋沢栄一のめざしたもの』（博字堂・平成１９年）<br />
『渋沢喜作書簡集』（深谷市郷土文化会・平成２０年）]]>
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    <category>渋沢栄一を知る・学ぶ</category>
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    <pubDate>Sat, 11 Jul 2009 02:17:01 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>深谷からリベラリズムを！</title>
    <description>
    <![CDATA[　<b>－渋沢栄一翁の精神に学ぶ－</b><br />
　昭和二十年（1945）の敗戦以来、我が国は米軍の占領下にあります。昭和二十六年（1951）のサンフランシスコ講和条約の締結により、国家としての主権を回復したことになってはいますが、事態は依然として変わっていないように思われます。駐留米軍の存在を抜きにしては、国防計画そのものが成り立たないのが、何よりの証拠です。<br />
　現在、世界第二位の経済力を有する我が国ですが、独立の矜持は失われてすでに久しく、国を思う心や愛国心の涵養などが声高に叫ばれるのも、そうした事態を反映してのことと思います。アメリカの世界戦略の中に取り込まれたまま身動きのできない我が国の現状を省みる時、「独立の気力なきものは国を思うこと深切ならず」との福沢諭吉先生の言葉が痛切に胸を打ちます。<br />
　幕末・維新の動乱の時代に、「独立自尊」の理念をかかげ、我が国の行く手を高らかに指し示したのが福沢先生ですが、文明の側から野蛮を断罪するその見方は、単純なだけに説得力があり、大きく時代を動かす原動力になりました。しかしながら、それは強者の論理であり、弱者に対する配慮に欠けていることは否めません。<br />
<br />
　その意味で対照的なのが、我が渋沢栄一翁の生き方と考えです。ふつう渋沢栄一翁は、我が国に資本主義を根づかせたパイオニアとして高く評価されていますが、その目指したものは、弱肉強食の資本主義でなく、あくまでも全体の人の進歩を図り、全体の人の幸福を目的とする、協同と融和の精神による資本主義でした。渋沢栄一翁は何よりも独占を嫌いました。<br />
　『渋沢栄一伝』をお書きになった幸田露伴翁は、渋沢栄一翁を称して「恭」の人と言っていますが、「恭」とは他者を尊重する精神の姿勢であり、このことに誰よりも厚かったのが渋沢栄一翁でありました。他者を尊重することは、ひるがえって個人の人格、個人の尊厳、個人の独立と自由に、最大の価値を見る精神でもあります。この意味で、渋沢栄一翁は、近代日本におけるリベラリズムの源流ともいうべき位置に立っています。<br />
<br />
　ややもすれば多数派の専制に流れやすい危険をともなう現今民主主義の制度ですが、これを健全に保ち、その有効性を確保して行く上で、何よりも大切なことは、他者を尊重するということ、渋沢栄一翁の「恭」の精神ではないでしょうか。国政の場においても、あるいは地方の議会においても、多数におごることなく、少数派の意見に絶えず耳を傾け、これを尊重するという謙虚な姿勢こそ必要だと思うのです。<br />
　渋沢栄一翁の精神に学び、ここ深谷の地が、新たなるリベラリズム発信の地となるよう、さらに努力してまいりたいと思います。<br />
（新井慎一　記）<br />
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    <category>渋沢翁の足跡</category>
    <link>https://kensho21.blog.shinobi.jp/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E7%BF%81%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1/%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E3%81%8B%E3%82%89%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%82%92%EF%BC%81</link>
    <pubDate>Fri, 10 Jul 2009 02:28:49 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>世界に向けて発信するに恥ずかしくないもの</title>
    <description>
    <![CDATA[　<b>－渋沢栄一翁の精神－</b><br />
　渋沢栄一翁が近代日本経済の草創・確立期において絶大な役割を果たしたことは皆様よくご存知のところかと思いますが、その真の偉大さは、「万人が富んでこそ真の社会の富」との信念の下、その実現のために生涯努力し続けたことにあるのではないでしょうか。 <br />
<br />
　地球資源の涸渇化や地球の温暖化等、個人や企業はむろんのこと、国家レベルを超える問題に直面している今、渋沢栄一翁がめざした、互いに助け合い、互いに分かち合う、他者を尊重する互恵的世界観こそ、これからの時代を切り開いて行く基礎となるものであり、世界に向けて発信するに恥ずかしくないものと、確信いたします。 <br />
　私ども渋沢栄一顕彰事業株式会社は、平成十八年十月、渋沢栄一翁の精神に学び、これを世に広めたいとの思いを共有する市民有志四十六名が集い、設立したものです。株式会社とは名ばかりの、あまりにも小さな会社ですが、渋沢栄一翁を主人公とした映画化の実現をめざし、さらに努力・精進してまいりますので、どうか皆様におかれましては、私どもの志を諒とせられ、ご支援・ご協力を賜りますよう、心からお願い申し上げます。 <br />
<br />
渋沢栄一顕彰事業株式会社]]>
    </description>
    <category>渋沢栄一を知る・学ぶ</category>
    <link>https://kensho21.blog.shinobi.jp/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%83%BB%E5%AD%A6%E3%81%B6/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%A6%E7%99%BA%E4%BF%A1%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AB%E6%81%A5%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE</link>
    <pubDate>Thu, 09 Jul 2009 02:28:57 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>渋沢栄一翁の軌跡 - 渋沢栄一を知る・学ぶ</title>
    <description>
    <![CDATA[　<b>近代日本経済の父</b><br />
　渋沢栄一翁は、我が国初の銀行である第一国立銀行を明治六年（1873）に起こし、以後、この銀行を拠点に数々の企業の創立や運営に携わり、その数は、五百社を超えるといわれています。また、養育院の運営をはじめとして、生涯を通じて関係した社会公共事業は六百を超えるとされています。特に晩年は、日米関係を中心とする国際平和活動にも心血を注がれました。数えで九十二歳という長命を全うし、昭和六年（1931）に亡くなっています。幕末・維新に始まり昭和の初期へと至るその生涯は、まさしく近代日本の歴史そのものでもありました。<br />
<br />
　<b>官尊民卑の打破</b><br />
　渋沢栄一翁がその生涯を賭けて実現しようとしたものが何であったのか。私なりに解釈させていただくと、その最大なものは「官尊民卑の打破」ということではなかったかと思います。<br />
　渋沢栄一翁は、十七才の時、岡部藩の陣屋にお父さんの名代ということで呼び出されます。姫様の輿入れが近いということで、各地の名主階級に御用金を申しつけたわけです。渋沢栄一翁の「中の家」（なかんち）は五百両という御用金を申しつけられました。お父さんが行った場合には、一言のもとに引き受けたことと思いますが、お父さんの名代ということで行きましたので、渋沢栄一翁は、陣屋の役人に向かって、父に伝えてからお返事申し上げますと、こう答えます。これで、役人が、カンカンに怒りまして、お前、何を言っているのだ、百姓の分際で思い上がりもはなはだしい、有り難くお受けするのが筋ではないか、いや、私は、父に伝えてからお返事申し上げます、こうした押し問答になりまして、その結果渋沢栄一翁はこの役人にさんざんに愚弄されることになります。<br />
　その時、渋沢栄一翁は、いわゆる江戸時代の身分制度の矛盾というものに目覚めるわけです。官尊民卑の現実を身をもって体験したということです。官が偉くて民が卑しいと。これは、おかしい。こういう世の中は変えなくてはいけない。そのように強く思うわけです。<br />
　明治二年（1869）に渋沢栄一翁は大隈重信さんに説得されて大蔵省に勤めますが、その後も渋沢栄一翁の志は民間にあって、どうしても民間でやりたいという気持ちに変わりはありませんでした。今のままでは、日本は優秀な人間がみんな官をめざして就職して、民間にはほとんど人材が集まらない。これでは世の中がよくならない。それならば、自分が民間に入って、自分が率先して人材を育て、企業を起こし、民間の地位を高めて行きたいと、明治六年（1873）大蔵省を辞めて、我が国初の銀行であります第一国立銀行を起こします。渋沢栄一翁にとって企業を起こすということは、それとあいまって、人材を育成するということが、その大きな目的になっていたのではないかと思います。民間に優秀な人材を数多く育てたということ、ここに、非常に大きな功績があるのではないでしょうか。<br />
　それともう一つ、もうけ話をするとほとんどの卑しい人間は、それを我が物にしようとしますが、渋沢栄一翁にはそういうことがありませんでした。相談があれば、人材はこれこれ、資金はこうこうという形で、その人の親身になって応ずるということで、段々と信用ができ、その信用がさらに相談の数を増すということになり、渋沢栄一翁に相談すれば間違いない、ということになりました。それが、相談したとたんに、もうけを自分でもって行ってしまうような人だと分かったら、誰も相談には行かないのではないでしょうか。<br />
　そういう意味では、渋沢栄一翁は、会社をつくる度に、会社の創立や運営に関わる度に、信用が増して行った。そういうことがあって、それだけ多くの会社に関わることができたのではないかと思います。<br />
<br />
　<b>独占の排除</b><br />
　次に、「独占の排除」ということがいえるのではないかと思います。これは、三菱財閥をお作りになった岩崎弥太郎さんとの対比の上で、よく描かれる問題です。岩崎さんにはちょっと申し訳ないのですが、どうしても渋沢栄一翁を善玉に、岩崎さんを悪玉に描くということが多いようです。<br />
　岩崎さんという人は、明治の元勲大久保利通さんにたいへんに可愛がられまして、戦争の度に政府の後押しで会社がどんどん大きくなって行きます。特に、明治十年（18七七）に起きた西南戦争において、政府側の兵員や物資の輸送を一手に引き受けたのが、岩崎さん率いる三菱会社の汽船だったのです。この西南戦争の勝敗は、三菱会社の汽船の動き次第で決まるともいわれたくらい、この戦争で重大かつ重要な働きをしまして、岩崎さんはこの戦争によって、今のお金でいいますと数千億円の利益をあげたといわれております。明治十年以降、ほぼ、三菱会社の汽船が、わが国の海運業を独占する状態になります。日本の商船の七割以上が、三菱会社の汽船になってしまいます。<br />
　こういう状態の時に、渋沢栄一翁は、三井の益田孝さんと組みまして、明治十六年（1883）、共同運輸会社という船会社を起こしまして、この三菱会社に対して、果敢に挑戦して行きます。<br />
　これはもう、血みどろの戦いになります。岩崎さんは一代の豪傑で、三菱会社の社則にもありますが、会社というものは、会社という名前をつけているけれども、これは、岩崎家個人のものだ、という考えなのです。そして、企業というものは、能力のある者が独占的に引っ張って行く、そこにいわゆる商機を見い出すこともできるし、経営の面白さもある。だから、もうかったときは、そのもうけはすべて、社長個人ものだ。逆に、損をした時は、すべて社長独りが責任を負う。こういう経営理念なのです。ですから、個人資産をどんどん増やして行くタイプの事業家なのです。<br />
　逆に、渋沢栄一翁は、それは、よくない、何のために事業をやるのか、やはり、世の中で必要とされるから、人様の役に立つから、それが道理にかなっているからではないか、と言うのです。それには皆で力を合わせてやって行くのが良いのだと。こういう考え方なのです。ですから二人は全然意見が合いません。<br />
　岩崎さんは、いわゆる、資本主義者らしい資本主義者といえばよいでしょうか。近年でいうと、松下幸之助さんなんかが、このタイプに属すると思います。どんどん個人資産を増やして行くというタイプです。もっとも松下幸之助さんは、これを作ると人が喜ぶだろうと、そういう発想で、いろいろと事業をやられた方だとお聞きしますが、膨大な個人資産を残された事業家のタイプということでは、間違いのないところです。その点、渋沢栄一翁は、個人資産は残されなかった。<br />
　さて、三菱会社と共同運輸の戦いも足かけ三年目、両者共倒れの危機となり、政府が仲介に入り、両社を合併させてできた会社が日本郵船です。この日本郵船ができた時には、渋沢・三井連合軍の共同運輸の株は、岩崎さんによってほとんどが買い占められておりましたので、実質的には三菱の勝利に終わるわけです。渋沢・三井連合軍が負けたことになります。<br />
<br />
　<b>国利民福のために</b><br />
　この後、日本郵船は次第に三菱の経営色を強めて来ます。そうした中、渋沢栄一翁は既に明治十六年（1883）、大阪に、大阪紡績会社を操業させていますが、これは、我が国で初めての本格的な大企業といえるような会社でありました。この大阪紡績の事業が順調に推移し、業績が年々拡大して行きますと、原料の綿花が不足して来ます。この綿花をどうにか手当しないと、これ以上発展が望めないという状態になってしまいました。当時、三井物産を通じて中国産の綿花を輸入していましたが、中国の商社の力が強くて、思うように入って来ません。生産が計画的に行かないため、インドのボンベイが綿花の栽培が盛んらしいということで、明治二十年（1887）のことですが、インドのボンベイに視察の一行を出します。そして、インドのタタ商会に口座を開き、このタタ商会を窓口に綿花を輸入しようとします。その綿花の引き受け手として大日本紡績連合会というものがあり、渋沢栄一翁がこれをまとめます。当時、三菱の船が独占状態にあったといっても、これは国内に限ったことで、海外航路はすべて外国の船によって独占されていました。特に、イギリスのピーオー汽船という会社の力が強く、これが独占状態でした。インドから綿花を安く購入しても、持って来る船賃が高価で、そこで儲けられたのでは、何にもならない。元も子もなくなってしまう。ここは、どうしても、自前の船を立てなければならないということになりまして、かつての敵方であります三菱の支配色の強い日本郵船の船を使います。インドのタタ商会、日本の大日本紡績連合会、そして日本郵船、この三者の間を渋沢栄一翁が取り持ち、途中ピーオー汽船の妨害もありましたが、明治二十六年（1893）十一月七日、神戸から広島丸という船を、インドに向けて出港させます。これが、我が国で初めての海外定期航路なのです。<br />
　ここで、渋沢栄一翁は、国益のために、敵方の船を使ってでも行動した。当時、日本郵船の総帥でありました岩崎弥之助さん、この方は弥太郎さんの弟で、後に日本銀行総裁を務めますが、この人が、渋沢栄一翁の行為に深く感じ入りまして、三顧の礼をもって、日本郵船の取締役に渋沢栄一翁を迎えたのが、同じ年の十二月のことです。<br />
　独占を排除し、より多くの人々が潤うような事業経営を目指す。こうした渋沢栄一翁の企業経営における基本的な姿勢は、生涯を通じて変わることがありませんでした。今でも多くの企業の経営者が、渋沢栄一翁に学ぼうとするのも、ゆえなしとしません。<br />
（新井慎一　記）<br />
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    <category>渋沢栄一を知る・学ぶ</category>
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    <pubDate>Sun, 05 Jul 2009 02:08:44 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>渋沢栄一翁のめざしたもの</title>
    <description>
    <![CDATA[　渋沢栄一翁は、昭和六年（1931）十一月十一日、九十二歳で亡くなりました。その長い生涯をかけて、渋沢栄一翁が実現しようとしたものは何だったのでしょうか。<br />
<br />
　まず、第一に、「官尊民卑（政府・官吏をたっとんで、人民をいやしむこと）の打破」ということがあげられます。<br />
　十七歳の渋沢栄一翁が、岡部の陣屋の役人にさんざんに愚弄される話はあまりに有名ですが、この時の経験は、渋沢栄一翁に、家柄や身分によって人間が差別されることの非をさとらせ、そういうことのない社会の実現をめざすきっかけとなりました。数々の企業の創立や運営にたずさわった渋沢栄一翁ですが、こうした事業活動を通じて、優れた人物を育成し、民間の地位を高めることに努めました。<br />
<br />
　次に「独占（利益を独り占めにすること）の排除」ということがあります。<br />
　富というものは社会全体を富ましてこそ真の富であるといつも考え、そのように行動しました。明治十六年（1883）には、当時わが国海運業を独占していた岩崎弥太郎率いる三菱汽船を相手に、三井の益田孝らと共同運輸会社をつくり、果敢にこれに挑戦しました。また、明治二十六年（1893）には、同じく海外航路を独占していたイギリスのピーオー汽船に対抗して、日本郵船の広島丸を神戸より出航させ、わが国初の海外航路をインドとの間に開きました。<br />
<br />
　最後に、心から「世界の平和」を願いました。<br />
　特に、日米親善には心を砕き、四度の訪米をはじめ、日米同志会や日米関係委員会の活動を通じて、アメリカの政府関係者・学者・実業家などとの交流をはかり、互いの理解を深める努力を重ねました。<br />
<br />
　いま、世界は、いたるところで、戦争があり、貧困があります。渋沢栄一翁のめざした社会は、いまだ実現されていません。この意味で、渋沢栄一翁もまた、志なかばに散った者の一人であるというほかありません。郷土を同じくする者のつとめとして、渋沢栄一翁の果たせなかった志を受け継ぐ一人でありたいと、切に願っています。<br />
（新井慎一　記）<br />
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    </description>
    <category>渋沢翁の足跡</category>
    <link>https://kensho21.blog.shinobi.jp/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E7%BF%81%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80%E7%BF%81%E3%81%AE%E3%82%81%E3%81%96%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE</link>
    <pubDate>Sat, 04 Jul 2009 02:07:02 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>渋沢栄一翁とハインツ父子</title>
    <description>
    <![CDATA[　渋沢栄一翁（1840～1931）のすごさは、その多彩な交友関係においても、語り尽くせぬほどの量と質を誇っています。国内はもとより、海外、とりわけアメリカの友人との間に、深い交友関係を持ちました。<br />
　世界有数の食品メーカーとして知られるハインツの創業社長であるヘンリー・ジョン・ハインツ（1844～1919）と、その次男で二代目社長であったハワード・ハインツ（1877～1941）父子との友情もまた感動的なものです。<br />
<br />
　渋沢栄一翁は、その生涯において、都合四度のアメリカ訪問を果たしました。その二度目、明治四十二年（1909）、渡米実業団の団長としてアメリカを訪れた際、ピッツバーグのハインツ社を見学、そこで社長のヘンリーと初めて出会いました。次に、大正四年（1915）の三度目の訪米では、ピッツバーグに一泊し、その夜ハインツ家の晩餐に招かれましたが、話題はもっぱら宗教や信仰をめぐって展開され、両者の間には大いに友情が深まったのでした。次に、大正十年（1921）、最後の訪米になりますが、この時はハインツ家に二泊して旧交を温めています。すでにその前々年ヘンリーは他界しており、その次男ハワードとの間に、往時を回想して時のたつのを忘れたのでした。翌朝ハワードとともに、その父ヘンリーの墓に詣でた渋沢栄一翁は、花輪を捧げ、哀悼の誠を尽くしました。<br />
その足で渋沢栄一翁たち一行は、同市にあるカーネギー博物館に展示されている日本人形のお披露目式に出席しました。それはヘンリーの寄贈になるものでしたが、三度目の訪米の際、その服装が時代的に混乱しているのを見て取った渋沢栄一翁は、その修繕方を引き受けたのです。数年が立ち修繕なったその日本人形は再び同館に収まり、渋沢栄一翁の最後の訪米に際してこれを迎えることとなりました。同館では、渋沢栄一翁の労をねぎらうため、ささやかではありましたが、心のこもった歓迎式典が催されました。<br />
<br />
　渋沢栄一翁がハインツ父子との交友を通して、最も感銘を受けたのは、実業という俗世間のことにたずさわりながらも、その精神においては、実に真摯なものがあり、常に社会公共のために尽くそうとするその姿勢でした。ここに日米の実業界における大きな違いを見た渋沢栄一翁は、こののちみずからも努力し、他人にも勧めて、常に真摯であろうと心がけました。<br />
　昭和二年（1927）の日米人形交換に先立ち、渋沢栄一翁とハインツ父子との間に交わされた友情の一コマです。<br />
（新井慎一　記）<br />
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    <category>渋沢翁の足跡</category>
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    <pubDate>Fri, 03 Jul 2009 02:06:25 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>渋沢栄一翁と教育</title>
    <description>
    <![CDATA[　幕末から明治、大正、昭和の初期へと至る渋沢栄一翁（1840～1932）の歩みの中で、近代日本経済の草創・確立期に果たした偉大な功績はもとよりのことですが、教育の分野においてもまた多彩な活動の跡が見られます。<br />
<br />
　早くは明治八年（1875）のこと、東京商法講習所（現一橋大学）の経営に参画しています。これを契機に、その後渋沢栄一翁は一貫して商業教育、実業教育の必要性を説き、その充実・発展に努めました。また、同志社大学・慶応義塾・大倉商業学校（現東京経済大学）・早稲田大学・高千穂学校（現高千穂大学）・二松学舎など、数々の私学の助成にも熱心に取り組みました。<br />
<br />
　明治十九年（1886）には、折から欧化政策を進めていた総理大臣の伊藤博文（1841～1909）の発案により、主として華族の婦女子を対象とする女子教育奨励会が設立されました。これを母体にして明治二十一年（1888）には東京女学館が創立されます。明治三十四年（1901）には、成瀬仁蔵（18五八～1919）を中心に日本女子大学校が創立されます。渋沢栄一翁はその最初からこれらのことに関わり、以後何かと遅れがちであった女子教育の進展に献身的に寄与しています。　<br />
<br />
　埼玉県に限れば、明治三十五年（1902）に、県下出身学生の修学奨励機関として埼玉学生誘掖会を設立し、会頭としてその死に至るまで尽力しています。地元深谷では、大正十一年（1922）に町民有志の浄財により深谷商業学校（現埼玉県立深谷商業高等学校）が設立されますが、この時に当り渋沢栄一翁は多額の寄附をしています。また、生誕の地血洗島に近い八基尋常高等小学校（現深谷市立八基小学校）については、明治二十九年（1896）の創立以来、とりわけ心にかけ、度々多額の援助を行っています。　<br />
<br />
　渋沢栄一翁自身は、「修身斉家治国平天下」をモットーとする儒教の教えを受け、『論語』をもってその生涯の規範ともしましたが、時代の変化に柔軟に対応する明晰な頭脳と、人の扱いが丁寧で親切心に富みユーモアーにあふれた人柄と、九十一年間の長大な人生を生き抜いた頑健な身体と、それらのものを育み、やがて大きな果実を実らせることになった源は、両親の深く大きな愛情の賜物であるとともに、郷土血洗島が織り成す風土の力、地域の教育力の高さであったと、言えるのではないでしょうか。<br />
（新井慎一　記）<br />
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    <category>渋沢翁の足跡</category>
    <link>https://kensho21.blog.shinobi.jp/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E7%BF%81%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80%E7%BF%81%E3%81%A8%E6%95%99%E8%82%B2</link>
    <pubDate>Thu, 02 Jul 2009 01:10:59 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>《渋沢栄一ファンクラブ》にご入会下さい</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong>ファンクラブと御案内</strong><br />
<a href="//kensho21.blog.shinobi.jp/File/sibusawa_dozo.jpg" target="_blank"><img src="//kensho21.blog.shinobi.jp/Img/1247533208/" border="0" alt="渋沢栄一銅像" /></a><br />
　渋沢栄一顕彰事業株式会社は、平成１８年１０月、近代日本経済の父とも称えられる渋沢栄一翁生誕の地である深谷市の市民を中心に、渋沢栄一翁を主人公とする劇場公開用映画の制作をめざして設立されました。最初の事業として、映画監督の柳町光男氏にシナリオの制作を依頼し、昨年９月にその第１稿が完成してまいりました。これを受けて私たちは、次なる段階として、このシナリオに基づいた企画書の作成にとりかかりました。<br />
　上田清司・埼玉県知事、新井家光・深谷市長、渋沢雅英・渋沢栄一記念財団理事長、それぞれ各界を代表する方々から応援メッセージをいただき、ようやくのこと、この３月、企画書の完成にこぎつけたところです。今後は、いよいよ制作資金の調達めざして、本格的な活動に入ります。<br />
　皆様のいっそうのご支援・ご協力をお願い申し上げる次第です。<br />
　また、渋沢栄一顕彰事業株式会社では、映画制作とは別に、渋沢栄一翁の事跡を広く世の中の皆様に知っていただくために、渋沢栄一翁に関係する企画展や講演会・研修会の開催、出版活動、関連史跡の探訪会等々、さまざまな事業を展開して行く予定でおります。<br />
　しかしながら、こうした事業を展開して行くには、それなりの経費を要することは言うまでもありません。弊社は株式会社という組織をとっておりますが、あくまでも渋沢栄一翁の顕彰が目的であり、営利を目的とするものではありません。ただし、弊社が存続して行かないことには、そうした事業を展開して行くこともできません。<br />
　つきましては、こうした私どもの活動をご支援いただくための会員組織として、《渋沢栄一ファンクラブ》を設立させていただきましたので、是非ともご入会賜りたく、お願い申し上げる次第です。年会費をご納入いただいた方には、年に一回、弊社の発行になる機関紙をお届させていただくほか、弊社主催の諸事業につきましても、その都度ご案内させていただきたいと考えております。<br />
　よろしくご支援の程、お願い申し上げます。<br />
平成２０年４月吉日<br />
渋沢栄一顕彰事業株式会社<br />
代表取締役　新井愼一<br />
<br />
<b>※下記から申込用紙を印刷して御記入の上、郵送にても受け付けしております。</b><br />
→<a href="//kensho21.blog.shinobi.jp/File/sibusawafanclub.pdf" target="_blank">ダウンロード(pdf)</a>ファンクラブ入会申込用紙(PDF)</a>]]>
    </description>
    <category>ファンクラブ</category>
    <link>https://kensho21.blog.shinobi.jp/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96/%E3%80%8A%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96%E3%80%8B%E3%81%AB%E3%81%94%E5%85%A5%E4%BC%9A%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%81%84</link>
    <pubDate>Wed, 01 Jul 2009 08:34:10 GMT</pubDate>
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