渋沢栄一の顕彰
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江戸時代、深谷は中山道の宿場町として栄えました。天保年間(1830~1844)のことですが、旅籠の総数は大小合わせて80軒を越えたといわれています。幕府直轄の天領でした。
渋沢栄一生誕の地である当時の血洗島村は、この深谷宿から北へ約1里半(6km)のところにあり、さらに村の北1.6kmほどの所に利根川が流れ、上州(現在の群馬県)の地に接しています。この利根川には近接の地に中瀬河岸(現在の深谷市中瀬)があり、ここは江戸方面(現在の東京)へと至る、また江戸方面より来る、人や物資の中継基地として、大いに栄えました。

渋沢栄一の生家「中の家」
このように血洗島村は、人や物資が交通・流通する上でたいへん重要な意味を持つ中山道と利根川という2大幹線に近く、渋沢栄一の育つ頃には、当時最新の情報や文化にふれることも容易な土地柄であったことと思われます。この血洗島村は、近くの村々と合わせて、岡部藩安部氏の支配する土地でした。安部氏はもと今川氏の家臣でしたが、今川氏の没落後、徳川家康に臣従し、天正18年(1890)、家康の関東入国に伴い、岡部の地に領地を与えられ、三河半原(現在の愛知県新城市)の領地その他と合わせて1万石を越え、小さいながらも大名に列せられたものです。旧深谷市街に隣接する岡部町(現在は合併して深谷市岡部)に陣屋がありました。
血洗島をはじめ、利根川に隣接する地域は、太古より利根川の氾濫原をなしており、たいへん肥沃な土壌であり、その土には細かな砂礫が混じっているため、米作には向きませんが、畑作には最適の地であり、現在も「深谷ネギ」をはじめとする野菜の一大産地として、全国的にも有名なところです。
特に、栄一の育った頃には養蚕と藍玉の生産が盛んで、栄一の生まれた家は、血洗島村の渋沢一族の間でも「中の家(なかんち)」と呼ばれ、本家筋とされていますが、この「中の家」における藍玉の年商は1万両を越えたとされるように、栄一はたいへん裕福な農家に育ちました。また、この藍玉の生産・販売は、一時期に莫大な資金とこれに応じた人手を要するため、新規の参入が非常に難しい業態であり、その分利益も大きなものがありました。

深谷市血洗島の鎮守・諏訪神社
血洗島という地名の由来には諸説があり、いずれも定説となるまでにはいたっていませんが、その一、二を紹介しますと、まず、太古より繰り返されて来た利根川の氾濫により、土地が常に洗われる意からチアライジマとなったのだというもの。また、土地が荒れている意からチアレジマ変じてチアライジマとなったのだとするもの。この両説が代表的なものです。渋沢一族がこの血洗島に土着したのは天正年間(1573~1592)のことといわれますが、荒れ地を耕してのそれであったとすれば、チアレジマ変じてチアライジマとなったという説にも、大いにうなずけるものがあります。さて、皆様はいかがお考えでしょうか。
渋沢栄一生誕の地である当時の血洗島村は、この深谷宿から北へ約1里半(6km)のところにあり、さらに村の北1.6kmほどの所に利根川が流れ、上州(現在の群馬県)の地に接しています。この利根川には近接の地に中瀬河岸(現在の深谷市中瀬)があり、ここは江戸方面(現在の東京)へと至る、また江戸方面より来る、人や物資の中継基地として、大いに栄えました。
渋沢栄一の生家「中の家」
このように血洗島村は、人や物資が交通・流通する上でたいへん重要な意味を持つ中山道と利根川という2大幹線に近く、渋沢栄一の育つ頃には、当時最新の情報や文化にふれることも容易な土地柄であったことと思われます。この血洗島村は、近くの村々と合わせて、岡部藩安部氏の支配する土地でした。安部氏はもと今川氏の家臣でしたが、今川氏の没落後、徳川家康に臣従し、天正18年(1890)、家康の関東入国に伴い、岡部の地に領地を与えられ、三河半原(現在の愛知県新城市)の領地その他と合わせて1万石を越え、小さいながらも大名に列せられたものです。旧深谷市街に隣接する岡部町(現在は合併して深谷市岡部)に陣屋がありました。
血洗島をはじめ、利根川に隣接する地域は、太古より利根川の氾濫原をなしており、たいへん肥沃な土壌であり、その土には細かな砂礫が混じっているため、米作には向きませんが、畑作には最適の地であり、現在も「深谷ネギ」をはじめとする野菜の一大産地として、全国的にも有名なところです。
特に、栄一の育った頃には養蚕と藍玉の生産が盛んで、栄一の生まれた家は、血洗島村の渋沢一族の間でも「中の家(なかんち)」と呼ばれ、本家筋とされていますが、この「中の家」における藍玉の年商は1万両を越えたとされるように、栄一はたいへん裕福な農家に育ちました。また、この藍玉の生産・販売は、一時期に莫大な資金とこれに応じた人手を要するため、新規の参入が非常に難しい業態であり、その分利益も大きなものがありました。
深谷市血洗島の鎮守・諏訪神社
血洗島という地名の由来には諸説があり、いずれも定説となるまでにはいたっていませんが、その一、二を紹介しますと、まず、太古より繰り返されて来た利根川の氾濫により、土地が常に洗われる意からチアライジマとなったのだというもの。また、土地が荒れている意からチアレジマ変じてチアライジマとなったのだとするもの。この両説が代表的なものです。渋沢一族がこの血洗島に土着したのは天正年間(1573~1592)のことといわれますが、荒れ地を耕してのそれであったとすれば、チアレジマ変じてチアライジマとなったという説にも、大いにうなずけるものがあります。さて、皆様はいかがお考えでしょうか。
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-渋沢栄一翁の精神-
渋沢栄一翁が近代日本経済の草創・確立期において絶大な役割を果たしたことは皆様よくご存知のところかと思いますが、その真の偉大さは、「万人が富んでこそ真の社会の富」との信念の下、その実現のために生涯努力し続けたことにあるのではないでしょうか。
地球資源の涸渇化や地球の温暖化等、個人や企業はむろんのこと、国家レベルを超える問題に直面している今、渋沢栄一翁がめざした、互いに助け合い、互いに分かち合う、他者を尊重する互恵的世界観こそ、これからの時代を切り開いて行く基礎となるものであり、世界に向けて発信するに恥ずかしくないものと、確信いたします。
私ども渋沢栄一顕彰事業株式会社は、平成十八年十月、渋沢栄一翁の精神に学び、これを世に広めたいとの思いを共有する市民有志四十六名が集い、設立したものです。株式会社とは名ばかりの、あまりにも小さな会社ですが、渋沢栄一翁を主人公とした映画化の実現をめざし、さらに努力・精進してまいりますので、どうか皆様におかれましては、私どもの志を諒とせられ、ご支援・ご協力を賜りますよう、心からお願い申し上げます。
渋沢栄一顕彰事業株式会社
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