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渋沢栄一の顕彰
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 -渋沢栄一翁の精神に学ぶ-
 昭和二十年(1945)の敗戦以来、我が国は米軍の占領下にあります。昭和二十六年(1951)のサンフランシスコ講和条約の締結により、国家としての主権を回復したことになってはいますが、事態は依然として変わっていないように思われます。駐留米軍の存在を抜きにしては、国防計画そのものが成り立たないのが、何よりの証拠です。
 現在、世界第二位の経済力を有する我が国ですが、独立の矜持は失われてすでに久しく、国を思う心や愛国心の涵養などが声高に叫ばれるのも、そうした事態を反映してのことと思います。アメリカの世界戦略の中に取り込まれたまま身動きのできない我が国の現状を省みる時、「独立の気力なきものは国を思うこと深切ならず」との福沢諭吉先生の言葉が痛切に胸を打ちます。
 幕末・維新の動乱の時代に、「独立自尊」の理念をかかげ、我が国の行く手を高らかに指し示したのが福沢先生ですが、文明の側から野蛮を断罪するその見方は、単純なだけに説得力があり、大きく時代を動かす原動力になりました。しかしながら、それは強者の論理であり、弱者に対する配慮に欠けていることは否めません。

 その意味で対照的なのが、我が渋沢栄一翁の生き方と考えです。ふつう渋沢栄一翁は、我が国に資本主義を根づかせたパイオニアとして高く評価されていますが、その目指したものは、弱肉強食の資本主義でなく、あくまでも全体の人の進歩を図り、全体の人の幸福を目的とする、協同と融和の精神による資本主義でした。渋沢栄一翁は何よりも独占を嫌いました。
 『渋沢栄一伝』をお書きになった幸田露伴翁は、渋沢栄一翁を称して「恭」の人と言っていますが、「恭」とは他者を尊重する精神の姿勢であり、このことに誰よりも厚かったのが渋沢栄一翁でありました。他者を尊重することは、ひるがえって個人の人格、個人の尊厳、個人の独立と自由に、最大の価値を見る精神でもあります。この意味で、渋沢栄一翁は、近代日本におけるリベラリズムの源流ともいうべき位置に立っています。

 ややもすれば多数派の専制に流れやすい危険をともなう現今民主主義の制度ですが、これを健全に保ち、その有効性を確保して行く上で、何よりも大切なことは、他者を尊重するということ、渋沢栄一翁の「恭」の精神ではないでしょうか。国政の場においても、あるいは地方の議会においても、多数におごることなく、少数派の意見に絶えず耳を傾け、これを尊重するという謙虚な姿勢こそ必要だと思うのです。
 渋沢栄一翁の精神に学び、ここ深谷の地が、新たなるリベラリズム発信の地となるよう、さらに努力してまいりたいと思います。
(新井慎一 記)
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 渋沢栄一翁は、昭和六年(1931)十一月十一日、九十二歳で亡くなりました。その長い生涯をかけて、渋沢栄一翁が実現しようとしたものは何だったのでしょうか。

 まず、第一に、「官尊民卑(政府・官吏をたっとんで、人民をいやしむこと)の打破」ということがあげられます。
 十七歳の渋沢栄一翁が、岡部の陣屋の役人にさんざんに愚弄される話はあまりに有名ですが、この時の経験は、渋沢栄一翁に、家柄や身分によって人間が差別されることの非をさとらせ、そういうことのない社会の実現をめざすきっかけとなりました。数々の企業の創立や運営にたずさわった渋沢栄一翁ですが、こうした事業活動を通じて、優れた人物を育成し、民間の地位を高めることに努めました。

 次に「独占(利益を独り占めにすること)の排除」ということがあります。
 富というものは社会全体を富ましてこそ真の富であるといつも考え、そのように行動しました。明治十六年(1883)には、当時わが国海運業を独占していた岩崎弥太郎率いる三菱汽船を相手に、三井の益田孝らと共同運輸会社をつくり、果敢にこれに挑戦しました。また、明治二十六年(1893)には、同じく海外航路を独占していたイギリスのピーオー汽船に対抗して、日本郵船の広島丸を神戸より出航させ、わが国初の海外航路をインドとの間に開きました。

 最後に、心から「世界の平和」を願いました。
 特に、日米親善には心を砕き、四度の訪米をはじめ、日米同志会や日米関係委員会の活動を通じて、アメリカの政府関係者・学者・実業家などとの交流をはかり、互いの理解を深める努力を重ねました。

 いま、世界は、いたるところで、戦争があり、貧困があります。渋沢栄一翁のめざした社会は、いまだ実現されていません。この意味で、渋沢栄一翁もまた、志なかばに散った者の一人であるというほかありません。郷土を同じくする者のつとめとして、渋沢栄一翁の果たせなかった志を受け継ぐ一人でありたいと、切に願っています。
(新井慎一 記)
 渋沢栄一翁(1840~1931)のすごさは、その多彩な交友関係においても、語り尽くせぬほどの量と質を誇っています。国内はもとより、海外、とりわけアメリカの友人との間に、深い交友関係を持ちました。
 世界有数の食品メーカーとして知られるハインツの創業社長であるヘンリー・ジョン・ハインツ(1844~1919)と、その次男で二代目社長であったハワード・ハインツ(1877~1941)父子との友情もまた感動的なものです。

 渋沢栄一翁は、その生涯において、都合四度のアメリカ訪問を果たしました。その二度目、明治四十二年(1909)、渡米実業団の団長としてアメリカを訪れた際、ピッツバーグのハインツ社を見学、そこで社長のヘンリーと初めて出会いました。次に、大正四年(1915)の三度目の訪米では、ピッツバーグに一泊し、その夜ハインツ家の晩餐に招かれましたが、話題はもっぱら宗教や信仰をめぐって展開され、両者の間には大いに友情が深まったのでした。次に、大正十年(1921)、最後の訪米になりますが、この時はハインツ家に二泊して旧交を温めています。すでにその前々年ヘンリーは他界しており、その次男ハワードとの間に、往時を回想して時のたつのを忘れたのでした。翌朝ハワードとともに、その父ヘンリーの墓に詣でた渋沢栄一翁は、花輪を捧げ、哀悼の誠を尽くしました。
その足で渋沢栄一翁たち一行は、同市にあるカーネギー博物館に展示されている日本人形のお披露目式に出席しました。それはヘンリーの寄贈になるものでしたが、三度目の訪米の際、その服装が時代的に混乱しているのを見て取った渋沢栄一翁は、その修繕方を引き受けたのです。数年が立ち修繕なったその日本人形は再び同館に収まり、渋沢栄一翁の最後の訪米に際してこれを迎えることとなりました。同館では、渋沢栄一翁の労をねぎらうため、ささやかではありましたが、心のこもった歓迎式典が催されました。

 渋沢栄一翁がハインツ父子との交友を通して、最も感銘を受けたのは、実業という俗世間のことにたずさわりながらも、その精神においては、実に真摯なものがあり、常に社会公共のために尽くそうとするその姿勢でした。ここに日米の実業界における大きな違いを見た渋沢栄一翁は、こののちみずからも努力し、他人にも勧めて、常に真摯であろうと心がけました。
 昭和二年(1927)の日米人形交換に先立ち、渋沢栄一翁とハインツ父子との間に交わされた友情の一コマです。
(新井慎一 記)
 幕末から明治、大正、昭和の初期へと至る渋沢栄一翁(1840~1932)の歩みの中で、近代日本経済の草創・確立期に果たした偉大な功績はもとよりのことですが、教育の分野においてもまた多彩な活動の跡が見られます。

 早くは明治八年(1875)のこと、東京商法講習所(現一橋大学)の経営に参画しています。これを契機に、その後渋沢栄一翁は一貫して商業教育、実業教育の必要性を説き、その充実・発展に努めました。また、同志社大学・慶応義塾・大倉商業学校(現東京経済大学)・早稲田大学・高千穂学校(現高千穂大学)・二松学舎など、数々の私学の助成にも熱心に取り組みました。

 明治十九年(1886)には、折から欧化政策を進めていた総理大臣の伊藤博文(1841~1909)の発案により、主として華族の婦女子を対象とする女子教育奨励会が設立されました。これを母体にして明治二十一年(1888)には東京女学館が創立されます。明治三十四年(1901)には、成瀬仁蔵(18五八~1919)を中心に日本女子大学校が創立されます。渋沢栄一翁はその最初からこれらのことに関わり、以後何かと遅れがちであった女子教育の進展に献身的に寄与しています。 

 埼玉県に限れば、明治三十五年(1902)に、県下出身学生の修学奨励機関として埼玉学生誘掖会を設立し、会頭としてその死に至るまで尽力しています。地元深谷では、大正十一年(1922)に町民有志の浄財により深谷商業学校(現埼玉県立深谷商業高等学校)が設立されますが、この時に当り渋沢栄一翁は多額の寄附をしています。また、生誕の地血洗島に近い八基尋常高等小学校(現深谷市立八基小学校)については、明治二十九年(1896)の創立以来、とりわけ心にかけ、度々多額の援助を行っています。 

 渋沢栄一翁自身は、「修身斉家治国平天下」をモットーとする儒教の教えを受け、『論語』をもってその生涯の規範ともしましたが、時代の変化に柔軟に対応する明晰な頭脳と、人の扱いが丁寧で親切心に富みユーモアーにあふれた人柄と、九十一年間の長大な人生を生き抜いた頑健な身体と、それらのものを育み、やがて大きな果実を実らせることになった源は、両親の深く大きな愛情の賜物であるとともに、郷土血洗島が織り成す風土の力、地域の教育力の高さであったと、言えるのではないでしょうか。
(新井慎一 記)
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渋沢栄一翁 世界に向けて発信するに恥ずかしくないもの
-渋沢栄一翁の精神-

 渋沢栄一翁が近代日本経済の草創・確立期において絶大な役割を果たしたことは皆様よくご存知のところかと思いますが、その真の偉大さは、「万人が富んでこそ真の社会の富」との信念の下、その実現のために生涯努力し続けたことにあるのではないでしょうか。

 地球資源の涸渇化や地球の温暖化等、個人や企業はむろんのこと、国家レベルを超える問題に直面している今、渋沢栄一翁がめざした、互いに助け合い、互いに分かち合う、他者を尊重する互恵的世界観こそ、これからの時代を切り開いて行く基礎となるものであり、世界に向けて発信するに恥ずかしくないものと、確信いたします。

 私ども渋沢栄一顕彰事業株式会社は、平成十八年十月、渋沢栄一翁の精神に学び、これを世に広めたいとの思いを共有する市民有志四十六名が集い、設立したものです。株式会社とは名ばかりの、あまりにも小さな会社ですが、渋沢栄一翁を主人公とした映画化の実現をめざし、さらに努力・精進してまいりますので、どうか皆様におかれましては、私どもの志を諒とせられ、ご支援・ご協力を賜りますよう、心からお願い申し上げます。

 渋沢栄一顕彰事業株式会社

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