渋沢栄一の顕彰
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渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれました。家は、養蚕と藍玉(木綿の染料)の生産・販売を主業とする富裕な農家でした。幼少より漢学を習い、7歳の頃からは隣村手計村に住む10歳年上の従兄弟尾高惇忠に師事しました。

尾高(淳忠)翁頌徳碑(深谷市下手計・鹿島神社境内)
青年期には次第に憂国の情を募らせ、文久3年(1863)11月、従兄弟の尾高惇忠や渋沢喜作らとともに、高崎城(現在の群馬県高崎市)乗っ取り・横浜異人館焼き打ちを企図しましたが、惇忠の弟長七郎の必死の説得により、これを断念します。その後、郷里を出奔し、京都に一橋家の重臣平岡円四郎を頼り、翌年2月、同家に仕官しました。
慶応3年(1867)正月、第15代将軍徳川慶喜の弟清水昭武を代表とするパリ万博親善使節の一員に選ばれ、渡仏しました。およそ2年にわたる滞欧生活の間に、銀行制度や株式会社制度をはじめとするヨーロッパの先進文明に接し、のちの活躍の基礎を築きました。明治元年(1868)11月、徳川幕府の瓦解により帰国しました。
明治2年(1869)11月、政府の要請により当時の民部省(のちの大蔵省)に入り、暦法や度量衡の改正・郵便制度の創設・鉄道の敷設等々、数々の改革に従事し、大蔵小輔(現在の次官の地位)にまで進みますが、財政改革の主張が入れられず、明治6年(1873)5月、上司の井上馨とともに辞任しました。同年6月、我が国最初の銀行である第一国立銀行(のち第一銀行、現在のみずほ銀行)が設立され、総監役(のち頭取)に就任し、以後、王子製紙・東京商法会議所(のちの東京商工会議所)・大阪紡績(のちの東洋紡績)・帝国ホテル・東京石川島造船所・東京瓦斯株式会社・札幌麦酒等々、数々の企業や団体の創立・運営に参画し、その数は500社を越えるといわれています。
また、明治7年(1874)11月、東京府知事より共有金取締(江戸町会所の積立金)を命ぜられ、これを契機に養育院の創設をはじめとする数々の社会・公共事業にたずさわり、その数は600を越えるといわれています。一橋大学・日本女子大学・早稲田大学への支援を始め、学術・教育の振興にも寄与しました。晩年は、特に日米親善に心血を注ぎ、排日移民法の撤廃やワシントン軍縮会議の成功に向けて精力的に活動するなど、国際平和活動に尽力しました。昭和6年(1931)11月11日、享年92歳で、東京王子の自邸に没し、谷中霊園に葬られました。葬儀の当日、会葬者の数は3万人を越え、多くの人々がその死を惜しみました。
経済活動には道徳が必要だとする渋沢栄一の経営理念は、その生前から「道徳経済合一説」として広く世に知られており、現在でも多くの企業家の尊敬を集めています。
尾高(淳忠)翁頌徳碑(深谷市下手計・鹿島神社境内)
青年期には次第に憂国の情を募らせ、文久3年(1863)11月、従兄弟の尾高惇忠や渋沢喜作らとともに、高崎城(現在の群馬県高崎市)乗っ取り・横浜異人館焼き打ちを企図しましたが、惇忠の弟長七郎の必死の説得により、これを断念します。その後、郷里を出奔し、京都に一橋家の重臣平岡円四郎を頼り、翌年2月、同家に仕官しました。
慶応3年(1867)正月、第15代将軍徳川慶喜の弟清水昭武を代表とするパリ万博親善使節の一員に選ばれ、渡仏しました。およそ2年にわたる滞欧生活の間に、銀行制度や株式会社制度をはじめとするヨーロッパの先進文明に接し、のちの活躍の基礎を築きました。明治元年(1868)11月、徳川幕府の瓦解により帰国しました。
明治2年(1869)11月、政府の要請により当時の民部省(のちの大蔵省)に入り、暦法や度量衡の改正・郵便制度の創設・鉄道の敷設等々、数々の改革に従事し、大蔵小輔(現在の次官の地位)にまで進みますが、財政改革の主張が入れられず、明治6年(1873)5月、上司の井上馨とともに辞任しました。同年6月、我が国最初の銀行である第一国立銀行(のち第一銀行、現在のみずほ銀行)が設立され、総監役(のち頭取)に就任し、以後、王子製紙・東京商法会議所(のちの東京商工会議所)・大阪紡績(のちの東洋紡績)・帝国ホテル・東京石川島造船所・東京瓦斯株式会社・札幌麦酒等々、数々の企業や団体の創立・運営に参画し、その数は500社を越えるといわれています。
また、明治7年(1874)11月、東京府知事より共有金取締(江戸町会所の積立金)を命ぜられ、これを契機に養育院の創設をはじめとする数々の社会・公共事業にたずさわり、その数は600を越えるといわれています。一橋大学・日本女子大学・早稲田大学への支援を始め、学術・教育の振興にも寄与しました。晩年は、特に日米親善に心血を注ぎ、排日移民法の撤廃やワシントン軍縮会議の成功に向けて精力的に活動するなど、国際平和活動に尽力しました。昭和6年(1931)11月11日、享年92歳で、東京王子の自邸に没し、谷中霊園に葬られました。葬儀の当日、会葬者の数は3万人を越え、多くの人々がその死を惜しみました。
経済活動には道徳が必要だとする渋沢栄一の経営理念は、その生前から「道徳経済合一説」として広く世に知られており、現在でも多くの企業家の尊敬を集めています。
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江戸時代、深谷は中山道の宿場町として栄えました。天保年間(1830~1844)のことですが、旅籠の総数は大小合わせて80軒を越えたといわれています。幕府直轄の天領でした。
渋沢栄一生誕の地である当時の血洗島村は、この深谷宿から北へ約1里半(6km)のところにあり、さらに村の北1.6kmほどの所に利根川が流れ、上州(現在の群馬県)の地に接しています。この利根川には近接の地に中瀬河岸(現在の深谷市中瀬)があり、ここは江戸方面(現在の東京)へと至る、また江戸方面より来る、人や物資の中継基地として、大いに栄えました。

渋沢栄一の生家「中の家」
このように血洗島村は、人や物資が交通・流通する上でたいへん重要な意味を持つ中山道と利根川という2大幹線に近く、渋沢栄一の育つ頃には、当時最新の情報や文化にふれることも容易な土地柄であったことと思われます。この血洗島村は、近くの村々と合わせて、岡部藩安部氏の支配する土地でした。安部氏はもと今川氏の家臣でしたが、今川氏の没落後、徳川家康に臣従し、天正18年(1890)、家康の関東入国に伴い、岡部の地に領地を与えられ、三河半原(現在の愛知県新城市)の領地その他と合わせて1万石を越え、小さいながらも大名に列せられたものです。旧深谷市街に隣接する岡部町(現在は合併して深谷市岡部)に陣屋がありました。
血洗島をはじめ、利根川に隣接する地域は、太古より利根川の氾濫原をなしており、たいへん肥沃な土壌であり、その土には細かな砂礫が混じっているため、米作には向きませんが、畑作には最適の地であり、現在も「深谷ネギ」をはじめとする野菜の一大産地として、全国的にも有名なところです。
特に、栄一の育った頃には養蚕と藍玉の生産が盛んで、栄一の生まれた家は、血洗島村の渋沢一族の間でも「中の家(なかんち)」と呼ばれ、本家筋とされていますが、この「中の家」における藍玉の年商は1万両を越えたとされるように、栄一はたいへん裕福な農家に育ちました。また、この藍玉の生産・販売は、一時期に莫大な資金とこれに応じた人手を要するため、新規の参入が非常に難しい業態であり、その分利益も大きなものがありました。

深谷市血洗島の鎮守・諏訪神社
血洗島という地名の由来には諸説があり、いずれも定説となるまでにはいたっていませんが、その一、二を紹介しますと、まず、太古より繰り返されて来た利根川の氾濫により、土地が常に洗われる意からチアライジマとなったのだというもの。また、土地が荒れている意からチアレジマ変じてチアライジマとなったのだとするもの。この両説が代表的なものです。渋沢一族がこの血洗島に土着したのは天正年間(1573~1592)のことといわれますが、荒れ地を耕してのそれであったとすれば、チアレジマ変じてチアライジマとなったという説にも、大いにうなずけるものがあります。さて、皆様はいかがお考えでしょうか。
渋沢栄一生誕の地である当時の血洗島村は、この深谷宿から北へ約1里半(6km)のところにあり、さらに村の北1.6kmほどの所に利根川が流れ、上州(現在の群馬県)の地に接しています。この利根川には近接の地に中瀬河岸(現在の深谷市中瀬)があり、ここは江戸方面(現在の東京)へと至る、また江戸方面より来る、人や物資の中継基地として、大いに栄えました。
渋沢栄一の生家「中の家」
このように血洗島村は、人や物資が交通・流通する上でたいへん重要な意味を持つ中山道と利根川という2大幹線に近く、渋沢栄一の育つ頃には、当時最新の情報や文化にふれることも容易な土地柄であったことと思われます。この血洗島村は、近くの村々と合わせて、岡部藩安部氏の支配する土地でした。安部氏はもと今川氏の家臣でしたが、今川氏の没落後、徳川家康に臣従し、天正18年(1890)、家康の関東入国に伴い、岡部の地に領地を与えられ、三河半原(現在の愛知県新城市)の領地その他と合わせて1万石を越え、小さいながらも大名に列せられたものです。旧深谷市街に隣接する岡部町(現在は合併して深谷市岡部)に陣屋がありました。
血洗島をはじめ、利根川に隣接する地域は、太古より利根川の氾濫原をなしており、たいへん肥沃な土壌であり、その土には細かな砂礫が混じっているため、米作には向きませんが、畑作には最適の地であり、現在も「深谷ネギ」をはじめとする野菜の一大産地として、全国的にも有名なところです。
特に、栄一の育った頃には養蚕と藍玉の生産が盛んで、栄一の生まれた家は、血洗島村の渋沢一族の間でも「中の家(なかんち)」と呼ばれ、本家筋とされていますが、この「中の家」における藍玉の年商は1万両を越えたとされるように、栄一はたいへん裕福な農家に育ちました。また、この藍玉の生産・販売は、一時期に莫大な資金とこれに応じた人手を要するため、新規の参入が非常に難しい業態であり、その分利益も大きなものがありました。
深谷市血洗島の鎮守・諏訪神社
血洗島という地名の由来には諸説があり、いずれも定説となるまでにはいたっていませんが、その一、二を紹介しますと、まず、太古より繰り返されて来た利根川の氾濫により、土地が常に洗われる意からチアライジマとなったのだというもの。また、土地が荒れている意からチアレジマ変じてチアライジマとなったのだとするもの。この両説が代表的なものです。渋沢一族がこの血洗島に土着したのは天正年間(1573~1592)のことといわれますが、荒れ地を耕してのそれであったとすれば、チアレジマ変じてチアライジマとなったという説にも、大いにうなずけるものがあります。さて、皆様はいかがお考えでしょうか。
(基本的資料)
『渋沢栄一伝記資料』全58巻(渋沢栄一伝記資料刊行会・昭和30年~40年)
同 別巻10(渋沢青淵記念財団竜門社・昭和41年~46年)
『渋沢栄一事業別年譜』(国書刊行会・昭和60年)
渋沢栄一著『論語講義(一)~(七)』(講談社学術文庫・昭和52年)
渋沢栄一述『雨夜譚』(岩波文庫・昭和59年)
(伝記関係)
幸田露伴著『渋沢栄一伝』(岩波書店・昭和61年)
土屋喬雄著『渋沢栄一』(吉川弘文館・平成元年)
韮塚一三郎・金子吉衛著『埼玉の先人・渋沢栄一』(さきたま出版会・昭和58年)
佐野眞一著『渋沢家三代』(文春新書・平成10年)
(小説)
城山三郎著『雄気堂々』(新潮社・昭和47年)
大仏次郎著『激流 若き日の渋沢栄一』(恒文社・平成7年)
(郷土史関係)
山口律雄・清水惣之助著『渋沢栄一碑文集』(博字堂・昭和63年)
荻野勝正著『郷土の先人 尾高惇忠』(博字堂・平成7年)
鳥塚惠和男・新井慎一著『郷土の先覚 渋沢仁山 -関係資料集-』(博字堂・平成8年)
新井慎一著『渋沢栄一を生んだ「東の家」の物語』(博字堂・平成14年)
新井慎一著『渋沢栄一 -父と子の物語-』(博字堂・平成16年)
新井慎一著『渋沢栄一のめざしたもの』(博字堂・平成19年)
『渋沢喜作書簡集』(深谷市郷土文化会・平成20年)
『渋沢栄一伝記資料』全58巻(渋沢栄一伝記資料刊行会・昭和30年~40年)
同 別巻10(渋沢青淵記念財団竜門社・昭和41年~46年)
『渋沢栄一事業別年譜』(国書刊行会・昭和60年)
渋沢栄一著『論語講義(一)~(七)』(講談社学術文庫・昭和52年)
渋沢栄一述『雨夜譚』(岩波文庫・昭和59年)
(伝記関係)
幸田露伴著『渋沢栄一伝』(岩波書店・昭和61年)
土屋喬雄著『渋沢栄一』(吉川弘文館・平成元年)
韮塚一三郎・金子吉衛著『埼玉の先人・渋沢栄一』(さきたま出版会・昭和58年)
佐野眞一著『渋沢家三代』(文春新書・平成10年)
(小説)
城山三郎著『雄気堂々』(新潮社・昭和47年)
大仏次郎著『激流 若き日の渋沢栄一』(恒文社・平成7年)
(郷土史関係)
山口律雄・清水惣之助著『渋沢栄一碑文集』(博字堂・昭和63年)
荻野勝正著『郷土の先人 尾高惇忠』(博字堂・平成7年)
鳥塚惠和男・新井慎一著『郷土の先覚 渋沢仁山 -関係資料集-』(博字堂・平成8年)
新井慎一著『渋沢栄一を生んだ「東の家」の物語』(博字堂・平成14年)
新井慎一著『渋沢栄一 -父と子の物語-』(博字堂・平成16年)
新井慎一著『渋沢栄一のめざしたもの』(博字堂・平成19年)
『渋沢喜作書簡集』(深谷市郷土文化会・平成20年)
-渋沢栄一翁の精神に学ぶ-
昭和二十年(1945)の敗戦以来、我が国は米軍の占領下にあります。昭和二十六年(1951)のサンフランシスコ講和条約の締結により、国家としての主権を回復したことになってはいますが、事態は依然として変わっていないように思われます。駐留米軍の存在を抜きにしては、国防計画そのものが成り立たないのが、何よりの証拠です。
現在、世界第二位の経済力を有する我が国ですが、独立の矜持は失われてすでに久しく、国を思う心や愛国心の涵養などが声高に叫ばれるのも、そうした事態を反映してのことと思います。アメリカの世界戦略の中に取り込まれたまま身動きのできない我が国の現状を省みる時、「独立の気力なきものは国を思うこと深切ならず」との福沢諭吉先生の言葉が痛切に胸を打ちます。
幕末・維新の動乱の時代に、「独立自尊」の理念をかかげ、我が国の行く手を高らかに指し示したのが福沢先生ですが、文明の側から野蛮を断罪するその見方は、単純なだけに説得力があり、大きく時代を動かす原動力になりました。しかしながら、それは強者の論理であり、弱者に対する配慮に欠けていることは否めません。
その意味で対照的なのが、我が渋沢栄一翁の生き方と考えです。ふつう渋沢栄一翁は、我が国に資本主義を根づかせたパイオニアとして高く評価されていますが、その目指したものは、弱肉強食の資本主義でなく、あくまでも全体の人の進歩を図り、全体の人の幸福を目的とする、協同と融和の精神による資本主義でした。渋沢栄一翁は何よりも独占を嫌いました。
『渋沢栄一伝』をお書きになった幸田露伴翁は、渋沢栄一翁を称して「恭」の人と言っていますが、「恭」とは他者を尊重する精神の姿勢であり、このことに誰よりも厚かったのが渋沢栄一翁でありました。他者を尊重することは、ひるがえって個人の人格、個人の尊厳、個人の独立と自由に、最大の価値を見る精神でもあります。この意味で、渋沢栄一翁は、近代日本におけるリベラリズムの源流ともいうべき位置に立っています。
ややもすれば多数派の専制に流れやすい危険をともなう現今民主主義の制度ですが、これを健全に保ち、その有効性を確保して行く上で、何よりも大切なことは、他者を尊重するということ、渋沢栄一翁の「恭」の精神ではないでしょうか。国政の場においても、あるいは地方の議会においても、多数におごることなく、少数派の意見に絶えず耳を傾け、これを尊重するという謙虚な姿勢こそ必要だと思うのです。
渋沢栄一翁の精神に学び、ここ深谷の地が、新たなるリベラリズム発信の地となるよう、さらに努力してまいりたいと思います。
(新井慎一 記)
昭和二十年(1945)の敗戦以来、我が国は米軍の占領下にあります。昭和二十六年(1951)のサンフランシスコ講和条約の締結により、国家としての主権を回復したことになってはいますが、事態は依然として変わっていないように思われます。駐留米軍の存在を抜きにしては、国防計画そのものが成り立たないのが、何よりの証拠です。
現在、世界第二位の経済力を有する我が国ですが、独立の矜持は失われてすでに久しく、国を思う心や愛国心の涵養などが声高に叫ばれるのも、そうした事態を反映してのことと思います。アメリカの世界戦略の中に取り込まれたまま身動きのできない我が国の現状を省みる時、「独立の気力なきものは国を思うこと深切ならず」との福沢諭吉先生の言葉が痛切に胸を打ちます。
幕末・維新の動乱の時代に、「独立自尊」の理念をかかげ、我が国の行く手を高らかに指し示したのが福沢先生ですが、文明の側から野蛮を断罪するその見方は、単純なだけに説得力があり、大きく時代を動かす原動力になりました。しかしながら、それは強者の論理であり、弱者に対する配慮に欠けていることは否めません。
その意味で対照的なのが、我が渋沢栄一翁の生き方と考えです。ふつう渋沢栄一翁は、我が国に資本主義を根づかせたパイオニアとして高く評価されていますが、その目指したものは、弱肉強食の資本主義でなく、あくまでも全体の人の進歩を図り、全体の人の幸福を目的とする、協同と融和の精神による資本主義でした。渋沢栄一翁は何よりも独占を嫌いました。
『渋沢栄一伝』をお書きになった幸田露伴翁は、渋沢栄一翁を称して「恭」の人と言っていますが、「恭」とは他者を尊重する精神の姿勢であり、このことに誰よりも厚かったのが渋沢栄一翁でありました。他者を尊重することは、ひるがえって個人の人格、個人の尊厳、個人の独立と自由に、最大の価値を見る精神でもあります。この意味で、渋沢栄一翁は、近代日本におけるリベラリズムの源流ともいうべき位置に立っています。
ややもすれば多数派の専制に流れやすい危険をともなう現今民主主義の制度ですが、これを健全に保ち、その有効性を確保して行く上で、何よりも大切なことは、他者を尊重するということ、渋沢栄一翁の「恭」の精神ではないでしょうか。国政の場においても、あるいは地方の議会においても、多数におごることなく、少数派の意見に絶えず耳を傾け、これを尊重するという謙虚な姿勢こそ必要だと思うのです。
渋沢栄一翁の精神に学び、ここ深谷の地が、新たなるリベラリズム発信の地となるよう、さらに努力してまいりたいと思います。
(新井慎一 記)
-渋沢栄一翁の精神-
渋沢栄一翁が近代日本経済の草創・確立期において絶大な役割を果たしたことは皆様よくご存知のところかと思いますが、その真の偉大さは、「万人が富んでこそ真の社会の富」との信念の下、その実現のために生涯努力し続けたことにあるのではないでしょうか。
地球資源の涸渇化や地球の温暖化等、個人や企業はむろんのこと、国家レベルを超える問題に直面している今、渋沢栄一翁がめざした、互いに助け合い、互いに分かち合う、他者を尊重する互恵的世界観こそ、これからの時代を切り開いて行く基礎となるものであり、世界に向けて発信するに恥ずかしくないものと、確信いたします。
私ども渋沢栄一顕彰事業株式会社は、平成十八年十月、渋沢栄一翁の精神に学び、これを世に広めたいとの思いを共有する市民有志四十六名が集い、設立したものです。株式会社とは名ばかりの、あまりにも小さな会社ですが、渋沢栄一翁を主人公とした映画化の実現をめざし、さらに努力・精進してまいりますので、どうか皆様におかれましては、私どもの志を諒とせられ、ご支援・ご協力を賜りますよう、心からお願い申し上げます。
渋沢栄一顕彰事業株式会社
渋沢栄一翁が近代日本経済の草創・確立期において絶大な役割を果たしたことは皆様よくご存知のところかと思いますが、その真の偉大さは、「万人が富んでこそ真の社会の富」との信念の下、その実現のために生涯努力し続けたことにあるのではないでしょうか。
地球資源の涸渇化や地球の温暖化等、個人や企業はむろんのこと、国家レベルを超える問題に直面している今、渋沢栄一翁がめざした、互いに助け合い、互いに分かち合う、他者を尊重する互恵的世界観こそ、これからの時代を切り開いて行く基礎となるものであり、世界に向けて発信するに恥ずかしくないものと、確信いたします。
私ども渋沢栄一顕彰事業株式会社は、平成十八年十月、渋沢栄一翁の精神に学び、これを世に広めたいとの思いを共有する市民有志四十六名が集い、設立したものです。株式会社とは名ばかりの、あまりにも小さな会社ですが、渋沢栄一翁を主人公とした映画化の実現をめざし、さらに努力・精進してまいりますので、どうか皆様におかれましては、私どもの志を諒とせられ、ご支援・ご協力を賜りますよう、心からお願い申し上げます。
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-渋沢栄一翁の精神-
渋沢栄一翁が近代日本経済の草創・確立期において絶大な役割を果たしたことは皆様よくご存知のところかと思いますが、その真の偉大さは、「万人が富んでこそ真の社会の富」との信念の下、その実現のために生涯努力し続けたことにあるのではないでしょうか。
地球資源の涸渇化や地球の温暖化等、個人や企業はむろんのこと、国家レベルを超える問題に直面している今、渋沢栄一翁がめざした、互いに助け合い、互いに分かち合う、他者を尊重する互恵的世界観こそ、これからの時代を切り開いて行く基礎となるものであり、世界に向けて発信するに恥ずかしくないものと、確信いたします。
私ども渋沢栄一顕彰事業株式会社は、平成十八年十月、渋沢栄一翁の精神に学び、これを世に広めたいとの思いを共有する市民有志四十六名が集い、設立したものです。株式会社とは名ばかりの、あまりにも小さな会社ですが、渋沢栄一翁を主人公とした映画化の実現をめざし、さらに努力・精進してまいりますので、どうか皆様におかれましては、私どもの志を諒とせられ、ご支援・ご協力を賜りますよう、心からお願い申し上げます。
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